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あの時。何を、どうすれば… 石巻・大川小、児童74人死亡・不明/河北新報社

24.04.2011
あの時。何を、どうすれば… 石巻・大川小、児童74人死亡・不明
東日本大震災で、石巻市の大川小は全校児童108人のうち65人が死亡し、9人が行方不明(22日現在)になった。大津波が引き起こした過酷な現実が、親たちに重くのしかかる。教職員も10人が死亡・行方不明に。学校であの時、何が起きていたのか。備えは十分だったのか。(佐藤崇、成田浩二)

 3月11日午後2時46分、5年生の教室では帰りの会が終わろうとしていた。「さようなら」。みんなで声を合わせた瞬間、強い揺れが襲った。急いで机の下に隠れ、全員が校庭に避難した。
 男子児童の母親(40)は、下校を待つため校庭近くに車を止めていた。携帯電話に緊急地震速報のメールが来た。車の外に出ると、立っていられないほどの揺れ。子どもたちが校舎を出てくるのを見て校庭に入った。点呼が始まる。子どもたちの表情は硬かった。
 近所のおばあさんが避難してきた。暖を取るため火をたこうとしていた先生の姿も覚えている。
 「津波だっつうど。なんぼでも高い所に逃げろ」。しばらくして校庭にいた年配の男性の声が聞こえた。母親は「山育ちの自分は、余震で建物が崩れることしか頭にない。誰も逃げようともせず、男性の話も立ち話程度にしか感じなかった」と振り返る。
 それでも「高い所」という言葉は耳に残った。子どもを連れて学校を離れ、津波に追い立てられるように車で峠方面に逃げた。
 別の母親(37)が車で学校に着いたのは午後3時15分ごろだった。「しばらくは校庭にいた方が安全。道路が壊れているかもしれない」。教師はそう助言したが「とにかく自宅に帰ろう」と子ども2人を連れ、5分ほどで学校を後にした。
 大津波警報が発令されたのは地震の3分後。市教委によると、校庭にいる間、学校は避難先を検討していた。学校にいた教職員11人のうち唯一、助かった男性教諭らからの聞き取りを基にした説明だ。
 学校は、裏山は倒木の危険性、校舎は余震で物が落下する恐れがあると判断したという。最終的に目指したのが、約200メートルほど離れた新北上大橋のたもとの交差点。校庭より6、7メートル高く「三角地帯」と呼ばれる場所だった。
 5年生の男子児童(11)は、1、2年生が手をつないで歩いていたのを記憶している。前方の大橋付近で水しぶきが上がり、波が向かってきた。みんな逃げようとしたが、一気に水をかぶった。
 津波に流されながら必死にすぐそばの山に上がろうとした。雪のためか、周りの友達も足が滑ってなかなか上がれない。「もう駄目だ」。生えていた木につかまると、何かが目にぶつかった。気が付くと斜面に体半分が埋まっていた。同級生が引きずり出してくれた。
 男子児童と同級生は、津波が襲う直前まで三角地帯で車両の誘導に当たり、山に逃げ込んだ市職員の佐藤幸徳さん(51)に保護された。
 住民ら16人でたき火を囲み、明け方を待った。子どもは中学生1人を含め4人。「寝たら死ぬぞ」。大人は声をかけたが、疲れた子どもたちは寒さに震えながら、何度となく短い眠りに落ちた。
河北新報社 http://www.kahoku.co.jp/news/2011/04/20110424t13010.htm

24.04.2011 msn
「大人は『もう戻れない』って…」原発避難の子、政府批判「必ず戻る」
≪環境一変 生活苦、友と離ればなれ≫

 福島第1原発周辺の子供たちは古里から遠く離れた避難先で春を迎えた。新しい友達もできたし、子供なりに事態の深刻さは分かっている。でも、みんなの願いはやっぱり「早く家に帰りたい」だ。

忘れられない故郷

 水戸市立千波(せんば)小学校には福島から避難してきた2~6年生の6人が転入した。原発から20キロ圏内の南相馬市に自宅がある6年生の鈴木麻菜さん(11)は「原発があの状態では帰れない。ここで友達をたくさんつくりたい」と前向きだ。

 南相馬市の避難所で過ごした後、伯母を頼って家族7人で水戸に来た。南相馬の友達と離れたのが一番つらいという麻菜さん。海岸沿いに住んでいた親友は無事だったが、連絡は取れず居場所も分からない。

 「福島のことは考えないようにしているけど、思い出しちゃう」。一瞬、顔をゆがめて寂しそうな表情を見せた。

 友達からの手紙や、教科書が入った大切なかばん。震災の日から南相馬の教室に置いたままだ。

 5年生の猪狩拓矢君(10)は楢葉町出身。父、秀一さん(56)はJR東日本水戸支社の社員で、楢葉町から毎日職場に通っていた。震災後、働きづめだった秀一さんから、水戸の社宅に入れることになったとの連絡を受け、家族で避難を決めた。

新しいクラスメートとじゃれあいながら楽しそうに給食をほおばり、水戸の学校にはすっかりなじんだ様子。「みんなに負けないように勉強して、生物学者になりたい」と明るい表情を見せる。

 それでも、楢葉町のことを忘れることはない。その風景が頭に浮かぶ。「家の近くに川があって、夏休みにはハゼがいっぱい釣れる」。目を輝かせて、懐かしむ拓矢君。「福島に帰りたい?」と尋ねると、首を縦に強く振って何度もうなずいた。

中学生7人が手記

 富岡町から福島県内や栃木、群馬、埼玉、大阪の各府県に避難した中学生7人は、携帯電話のメールで近況を伝え合っている。そこで交わしたメッセージを手記にまとめ、共同通信に寄せた。

 「全国に友達が散らばりました。電話で声を聞くだけです。仲間に会えず毎晩泣いています。顔を向き合わせ話がしたいです」

 ばらばらに古里を去らなくてはいけなくなったことへの強い怒りがにじむ。

 「避難所から出て、知らない土地にアパートを借り生活している友達がいます。親は仕事が無くなり収入が入ってきません。それでも着の身着のまま逃げてきた人は本来買う必要のないものにお金を使ってしまいます」と、生活への支援を訴える。

 そして「今の政府の対応には不満が募っています。もっと具体的に説明してください」「大人は『もう戻れない』『戻るには10年かかる』と言っています。なぜ大人はそういうことしか考えられないのでしょうか」と政府などを批判している。手記にまとめた女子生徒(14)は「いつか政府の人に直接伝えたい」と話す。

 手記はこう結ばれている。

 「私たちは故郷に戻ります。いつか必ず戻るとみんなで約束しました」
 (SANKEI EXPRESS)
msn http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110424/dst11042411120009-n2.htm




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