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後藤新平と震災復興の4カ月-その可能性と限界

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2011年4月22日(金)日経ビジネス
「もはやすべての行きがかりをなげうって、入閣するほかない」
第1話 政治の「空白」を襲うかのように起きる大災害
山岡 淳一郎

東日本大震災の遭難者の捜索すらままならない状況で、永田町・霞が関では「復興」論議がかまびすしい。菅直人首相が発足させた「復興構想会議」(議長・五百旗頭真防衛大学校長)は、14日の初会合で「震災復興税」を提起した。構想会議の提言をもとに全閣僚の「復興本部(仮称 本部長・首相)」で計画を策定、関係省庁間で調整して実施するスキームを描いている。その後、与野党協議機関「復興実施本部」の設立をめぐって調整が続けられている。

 一方、民主党では「復旧・復興検討委員会(委員長・岡田幹事長)」が「復旧復興対策基本法案」の原案をまとめた。自民党は160項目の「緊急提言」を出している。さらに国民新党亀井静香代表らは国会決議での超法規的「救国非常事態対策院」の設置を、仙谷官房副長官を介して菅首相に打診。利権争奪必至の連立を封じる「枢密院」構想であったが、民主、自民両党の議員はいったん大連立を掲げてこれを阻んだ。

 と、復興論議は政治的、官僚的利害と絡んで百家争鳴状態である。

 一見、水と油のような意見が飛びかっているようだが、その出所をたどっていくと、ひとりの政治家に行きつく。関東大震災後の「帝都復興」を指揮した後藤新平(1857~1929)である。政治家や文化人の口からは「後藤新平のような……」という言葉が次々と飛び出す。しかし後藤が何に挑み、何によってはね返されたのか、その光と影はあまり知られていない。


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山岡淳一郎著『後藤新平 日本の羅針盤になった男』より

 まず、初動において後藤は現政権の担当者とは極めて対照的な行動をとっている。

 1923年9月1日、東京、横浜を中心とする関東一円が大激震に見舞われると、後藤は、それまでの「政治対立」を捨てて組閣に手間取っていた海軍出身の山本権兵衛(1852~1933)を訪ね、内務大臣への就任要請を受け入れた。山本首相―後藤内相の「震災内閣」を立ち上げると、自ら日銀総裁だった井上準之助(1869~1932)をかき口説き、大蔵大臣にすえる。行きがかりをなげうって、意見を異にする閣僚とも組んだ。オトナの対応をしたのである。

 今回の震災でいえば、菅首相が毀誉褒貶は覚悟で、東北の事情に精通し、力のある小沢氏を東北救援担当大臣として内閣に招くような行為であろう。野党に連立を呼び掛ける以前に、民主党内を「一枚岩」にすることが必要だったのではないか。反小沢を貫く理由を、菅首相は「おれの政治の原点は反田中だ」と言ったと伝えられるが、個人的な事情などどうでもいい。大局をつかんで動けるか否かが、政治家の重要な資質だろう。

 後藤の名をあげる政治家の多くは、彼が組織した「帝都復興院」を組織モデルに見立てている。

 後藤は、いち早く、復興方針を掲げ、帝都復興院に手足として動くプロフェッショナルを集めた。菅首相が構想会議の立ち上げで真似た阪神・淡路大震災時の「復興委員会(下河辺淳委員長)」も、当初は復興院をめざしていた。

 しかし官僚とメディアの「屋上屋を重ねる」との批判で、委員会へ格下げされている。行政機構が単純だった大正期と複雑化した今日を同一視するのは難しいとはいえ、緊急災害に一元的に対応する機関を検討する余地はあるだろう。民主党は復興案で「防災復興府」、同じく自民党は「復興再生院」を提案しているけれど、官僚の抵抗で葬られる可能性が高い。

 国柄の違いで緊急災害への対応体制はさまざまだが、米国では長く大統領直属の「合衆国連邦緊急事態管理庁(FEMA)」が洪水、ハリケーン、地震、原子力災害などに向き合ってきた。FEMAは、ブッシュ政権下で国土安全保障省の一部に入れられ、権限や予算が縮小されたために05年のハリケーン災害の救援が後手に回ったと批判されている。

 2004年のスマトラ沖大地震・大津波で、インドネシア・アチェ州では22万人以上の死者・行方不明者を出した。インドネシアでは震災後111日目に「復興再建庁(BRR)」が立ち上げられ、政府、自治体、国軍、国際組織などの動きに一元的に対応。迅速な復興を遂げた。

 BRRのクアントロ元長官は、朝日新聞のインタビューにこう答えている。
「複数で担当すると、必ず政治的になって進まなくなる。一機関に任せるのが良いと思う。トップの人選は難しい。若いと失敗したときにそのキャリアに響くし、年配だと体力がもたない。突破力と慣習にとらわれない知恵が必要だ。あとは助けたいという意思と犠牲精神、ガッツがあれば何とかなる」(2011年4月4日付)

88年前、後藤新平は、まさに「突破力と慣習にとらわれない知恵」をよりどころに帝都復興に挑んだ。その構想は「大風呂敷」と揶揄され、批判を浴びる。大風呂敷は切り刻まれた。だが、結果的に首都圏の都市計画やインフラづくりは後藤の構想を後追いしている。

 関東大震災から60年後、昭和天皇は、学者との雑談でこんな発言をした。
「(関東大震災の)復興に当たって後藤新平が非常に膨大な復興計画をたてたが、いろいろの事情でそれが実行されなかったことは非常に残念に思っています。もし、それが実行されていたらば、おそらく東京あたりは非常に軽かったんじゃないかなと思って、今さら後藤新平のあの計画が実行されなかったことを非常に残念に思います」(『陛下、お尋ね申し上げます』高橋紘著・文春文庫より一部要約)

 復旧、復興へ関心が向けられているいま、もう一度、後藤の足跡をたどり、その可能性と限界をふり返っておこう。組織の体制が一元的であろうが、多元的であろうが、リーダーには大局観が求められる。後藤の行動を通して、大局観とは何か、考えてみたい。

*  *  *  *  *

 不思議なことに大災害は、政治が「空白」に近い状況のときに起きている。今回の震災発生時、菅政権は支持率が1割台に急落し、外国人からの首相への献金問題で立ち往生していた。統一地方選での民主党敗退は間違いなく、政権の求心力は衰え、カラー映像の色彩が抜けていくように政治は空白化しつつあった。

 じつは、関東大震災が発生したときも、政治は空転状態だった。震災の1週間ほど前、首相の加藤友三郎が病没した。後継者が定まらず、政党と藩閥の間で猛烈な綱引きが演じられていた。後藤は、政党から距離を置き、岩手水沢の出身ゆえに長州、薩摩の藩閥からも遠かった。元老は海軍出身の山本権兵衛に首相内示を与えていた。その山本から内相として台閣に列するよう非公式に誘われたが、政治姿勢が相容れず、対立していた。

 震災の4日前、天皇から山本へ総理大臣就任の「大命」が降下された。この当時、元老の推薦を受けた天皇が候補者に大命を下すことで、総理大臣は選ばれていた。

 山本は、すぐに築地の海軍将校専用のクラブ「水交社」に籠もり、組閣に着手する。が、いざ大命が下ると山本は「鎌倉幕府的」といわれるほど高飛車に大臣を決めようとした。真っ先に呼び寄せたのは「政友会」の高橋是清と「憲政会」の加藤高明だった。二大政党のトップを一本釣りして「挙国一致内閣」の成立をもくろむ。

 ところが両党首に断られ、事態はドタバタ劇へ転じる。取り巻きを使者として閣僚候補者のもとに送るが、色よい返事はもたらされない。組閣作業は、1日、2日と空回り。見かねた僧侶が「霊感を与えにきた」と水交社に現れて、玄関先で「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、悪鬼退散、悪鬼退散」と頼みもしないお経を大声で唱える始末だ。

 山本は仕方なく、気心の知れた薩摩閥で閣僚を固めにかかった。8月31日、ようやく山本、後藤、そして犬養毅の三者会談が実現する。だが、後藤は「苦しいときのイエスマン頼み」とばかり薩摩閥に偏る山本の方針に反発し、物別れに終わった。後藤は大臣就任を拒絶するつもりだった。

 と、そこに関東大震災が襲いかかったのである。帝都東京は、凄まじい衝撃で突き上げられるや、「ゴーッ」と、地獄の釜のふたが開け放たれたような轟音をたてて、大きく波打った。伊豆大島、相模湾を震源とするマグニチュード7・9の直下型大地震が発生した。

 東京は、激しく揺さぶられて八十数か所から出火し、能登半島付近にあった台風が巻き寄せる風速17メートルの南風に煽られて、あっという間に一面火の海となった。家を喪った百数十万の人間が、どっと屋外にあふれ出た。熱波を避けて川や池に飛び込む人々の群れを獰猛な炎の舌が舐めつくした。

 木と紙でできた「村」の集合体である帝都は、わら束を積んだように脆かった。

地震の一撃が襲いかかってきたとき、山本権兵衛は、水交社の2階の小部屋で組閣談義に耽っていた。築地は海に面している。みるみる水位が上がり、材木が十数本も打ち上げられてきた。津波がくる。山本は、組閣作業を中止して高輪の私邸に帰ったが、家屋は手の施しようもないありさまで、近くの同僚の家に避難した。

 後藤新平は麻布の邸にいた。ひどい揺れに驚いて、家人ともども庭に飛び出した。幸いにして日本建築の母屋や洋館などの4棟は、大きな被害を受けなかった。

 夜になっても街を焼き尽くす火の勢いは衰えなかった。燃え続ける東京を月が煌々と照らしだす。通信手段は途絶え、道路は寸断されてしまった。帝都は、孤立した。

 後藤新平は、決然と断を下した。

「もはやすべての行きがかりをなげうって、入閣するほかない」

 翌2日、後藤はまだ朝日も昇らぬうちに山本権兵衛のもとへ駆けつけて内務大臣を引き受けると伝え、一刻も早く組閣にとりかかろうと促した。山本は、閣僚候補の誰とも連絡がとれず、途方にくれていた。そのときのようすを山本は後年の座談会(「帝都復興秘録」東京市政調査会)で次のように語っている。

「火に包まれた地震の一夜が明けると、どこからともなく流言蜚語が伝わってきた。思う人を呼びにやっても、なかなか来ないし、また情報すらない。実に気が、気でなかったところへ、来たのが後藤伯爵であった。伯(後藤)とは、すでにそれとなく話もしてあって、伯が来て、だいたいのようすもわかった。よって自分は、これでは完全の組織を望むわけにはまいらぬ。しかし、内閣は一日もむなしくすべからず、二三の人とでも一緒に、骨となって働こうというと、伯は、もちろんやりますというた。(略)午後三時を期して永田町に乗り込むことにした」

 山本との面談を終えた後藤は、さっそく奔りだした。

「財政だ。すべては財政にかかっている。この難局には、あの男しかいない」。

 自動車に身を躍りこませると「日本橋の日本銀行へ急いでくれ」と運転手に命じた。意中の人は、日銀総裁の井上準之助。大分出身で藩閥の外にありながら、東京帝国大学を卒業後、日銀に入って「通貨の番人」としての腕を磨いた財政家だ。

 後藤の自動車が道路の裂け目をよけながら、日本銀行に向かっていたとき、井上準之助は迫りくる業火と格闘していた。日銀にとって屋根や3階部分が焼け落ちたところで大した被害ではない。重要なのは2階から下だった。井上が切羽詰った口調で消防署長に告げた。

「二階以下の倉庫だけは、いかなる犠牲をはらっても、焼いてはならない。(紙幣や証券、切手などを製造する)印刷局は全焼してしまったし、このうえ日銀で最も重要な倉庫が炎上して兌換券を灰燼に帰してしまったら、国民の失望、落胆は非常なことになってきます。どうしても倉庫だけは助けねばならない」

「事情はわかりました。ただ、消防夫は倉庫がどこにあるか分かりません。一緒になかに入って、ここが重要な場所だから消してくれ、と言ってくれる人が必要なのです」と、消防署長。

「なかに入って、窒息することはありませんか」と井上は訊き返す。

「ドームの下には入れませんが、こちらの二階の窓からならだいじょうぶでしょう」

「よろしい。おれが案内する」

 と、言うが早いか、井上は消防署長に続いて石垣をよじ登り、渡し板を通って窓から建物のなかに飛び込んだ。「井上準之助 明治百年叢書」には、こう記されている。

「井上君は手巾で鼻口を抑えながら、応接室などはどんなになっても仕方がないが、大切な部分というのはここだといって、大廊下が右に折れ曲がるところの左側の高い壁の前に行って立った。次は、ずっと向こうのほうになっているんだと言いつつ、井上君は行内を東西に貫いている大廊下をなお向こうへ進もうとすると、筒先を揃えて四台のポンプから注ぎかける泥水は熱火のために土塵を混じた熱湯となって一同の頭に浴びせかかった」

3時ころ、鎮火を見届けた井上は、警視庁に消火活動の礼を言いに行こうとクルマに乗って日銀を出た。宮城の広場の前で、ちょうど日銀に向かっていた後藤の自動車とすれ違いそうになり、双方が急停車した。後藤は井上を車中に招きいれ、まくし立てた。

「とにかく、一日たりとも国務を放棄しておくわけにはいかない。この惨状を目の前に見て、躊躇している場合ではない。山本さんにも、そう話して賛成しておられるから、大蔵大臣を引き受けてもらいたい。日本銀行のことは、副総裁もおるし、他にも人はある。きみが大蔵大臣として指導すればよろしい。一刻も躊躇しておるときではない。これから麻布のわが家に回って、話をしようじゃないか」

 車中と後藤邸での会談を経て、井上は蔵相への就任要請を受けた。

 午後5時、ようやく閣僚がそろう。摂政宮(のちの昭和天皇)が臨席して親任式が行われたのは午後7時40分。場所は赤坂離宮が選ばれた。建物のなかは危険だったので庭園の東屋「萩の茶屋」にテントを張った。電燈もないテントで、蝋燭の明かりを頼りに摂政宮から新閣僚に親任状が手渡された。ここに「震災内閣」が誕生した。

 親任式を終えて麻布の自邸に戻った後藤は、母屋の二階奥の和室に籠もると巻紙と筆を手にして、墨痕鮮やかに「根本策」を書きつけた。

一、 遷都をしてはならない
二、 復興費には30億円が必要
三、 欧米最新の都市計画を採用して、わが国にふさわしき新都を造営する
四、 都市計画を実施するためには地主に対して断固たる態度をとる(過去において東京の地主は、街が改造された際にも公共の原則が求める犠牲を払わず、不当な利益を得ている)。
 後藤は、まず、遷都論を葬った。陸軍参謀本部の将校から「百年に一度、大地震が起きるといわれる東京を都とするのは国防上、地勢上よろしくない、朝鮮半島京城の南の竜山、播州加古川、八王子付近を候補地として遷都すべき」との説が浮上していたが、遷都が政治、経済、文化に及ぼす影響、莫大なコストを考えれば「空論にすぎぬ」と否定した。

 復興費30億円はいかにも巨額だ。震災が起きた年の国家予算は〈13億7千万円〉だった。国家予算の2倍でも足りない。井上蔵相は、どう反応するのか。

 三、の欧米型の新都造営とは「燃えない都市」を建設することだった。広い幅の道路を通し、火災が類焼する危険を断つ。公園を随所に配して災害時の避難場所を確保する。建物は不燃のコンクリートや石、煉瓦を使って頑強にこしらえる……現代につながる「災害に強い街」が念頭にあった。

 こうした都市計画を実行するうえで、財源問題と並んでゆく手をはばむ壁になると予想されたのが、四番目の「地主」の存在だ。限られた都市内で道路を広げ、公園をつくるには誰かが土地を提供しなければならない。各地主が共に一定の割合の土地を出し、区画を整えて道路を通し、宅地を定めて公園を開く。安全な都市基盤ができれば、街に人が集まり、繁栄して地価が上がる。地価上昇で地主には大きな利益がころがりこむ。

 にもかかわらず、維新以降、東京の街が改造されるたびに一握りの大地主は何ら犠牲を払うことなく、不当な利益を得てきた、と後藤は思った。帝都復興においては断固たる態度で臨む、と力瘤をつくった。

 だが、この論法がはたして土地に執着する地主層に通じるのだろうか……。

 いま、後藤が帝都復興策を練った邸は満州公館を経て、中国大使館に変わっている。

 「六本木ヒルズ」の西側、旧テレ朝通りを南に下っていくと大使館の前に出る。六本木の喧騒も届かず、ふだんは静まり返っている。厳重に警備された正門の向こうに丈の高い木立の先端が垣間見える。その密度は濃く、木々は鬱蒼と茂っている。後藤邸のなごりであろうか。耳を澄ませば……、後藤が書生たちに飛ばす「檄」が聞こえてくるようだ。

写真提供:財団法人東京市政調査会、出典:山岡淳一郎著『後藤新平 日本の羅針盤になった男』
(次回に続く)
日経ビジネス http://business.nikkeibp.co.jp/article/money/20110419/219501/?P=1

2011年5月6日(金)日経ビジネス
「各省から独立した『復興省』を創設すべきである!」
第2話 「一に人、二に人、三に人」。実力本位で見込んだ人材を引っぱった
山岡 淳一郎

菅政権には、全体を見とおす大局観が欠けている。だから震災対応の「中心」が定まらず、復旧、復興に向けて、誰が、どう具体的な筋道を立てるのかが見えてこない。首相肝いりの「復興構想会議(五百旗頭真議長)」が方向性を示すにしても、その受け皿となるはずの「復興対策本部(菅首相・本部長)」が野党を取り込もうとして迷走している。国難に際して、政治家が政局絡みで綱引きばかりしていれば、被災者の生活の立て直しは遅れ、広範で多様な被災地ニーズとかけ離れた青写真が描かれかねない。

 政治の空転が続けば、その間隙をついて官僚機構は静かに支配力を強めていく。

 手もとに一枚のペーパーがある。「復興法案準備室事務局体制(イメージ)」と題された組織図だ。トップから実務で汗をかくポジションまで、入省年次に沿って官僚がものの見事にピラミッド型に並んでいる。

 4月11日、枝野官房長官は記者会見で「復興構想会議は佐々木内閣官房副長官補を室長とする被災地復興に関する法案等準備室が事務局を担当する。人選の詳細については内閣総務官室にお問い合わせください」と述べた。あちこちに当たって入手できたのが、この体制図である。復興を左右する実務機関の陣容が示されている。

 ひと言でいえば、内閣官房(枝野長官―仙谷副長官)が仕切る組織だ。最上位に瀧野欣彌・内閣官房副長官(東大法卒、昭46年自治省入省)が納まり、実質的トップの室長に佐々木豊成・内閣官房副長官補(東大法卒、昭和51年大蔵省入省)が就く。佐々木室長の下、全体総括が佐藤慎一・内閣官房副長官補室審議官(昭55年大蔵省入省)、法制担当は荻野徹・内閣官房内閣総務官室審議官(昭和57年警察庁入庁)となっている。両審議官の下に財務、国交、総務各省の参事官、その下に国交、財務、経産の補佐及び企画官、そのまた下に主査クラスと、ピシーッと年次序列で並んでいる。

 よくぞまぁ、この緊急時に年次を揃えたものだ。組織図に記された23名のうち、被災者の生活再建に深くかかわる厚労省出身は2名。農水省はたった1名で、それも主査だ。一方、財務省は、最多の6名で要所を握っている。なるほどビジョン(未来像)を示すはずの復興構想会議が、最初の会合でいきなり「震災復興税」を提案するわけだ。構想会議は、すでに財務省の掌の上で動かされている。図を眺めていて、私は背筋が寒くなった。これで基幹産業の農林水産業が壊滅的打撃を受けた東北を立て直し、日本を再生できるのだろうか。はたして適材適所といえるのか……。

 88年前の話とはいえ、後藤新平は、こんな組織を志向したりはしなかった。いまほど官僚機構が複雑ではなかったにしても、もっと人間の生活主体で事業を組み立て、人を配置している。少なくとも「財源ありき」の発想ではなかった。では、後藤が復興の中心に位置づけた「帝都復興院」とはいかなる組織で、どんな人材が集まってきたのか……。

*     *     *

 関東大震災の発生直後、内務大臣に就任した後藤は、4つの根本策(【1】遷都はしない、【2】復興費に30億円必要<当時の国家予算は13億7000万円>、【3】欧米最新の都市計画の採用、【4】都市計画実施のため地主に断固たる態度をとること)を示した。

 後藤は、この根本策を遂行するために特別の機関を設け、復興費は原則国費で「長期の内外債」を募る、と方針を立てた。さらに罹災地域は公債を発行して土地を買収し、そこを整理した後、適正・公平に売却、もしくは貸付を行うと高らかに言い放った。

 これが世間をアッと驚かせた「焼土全部買上げ案」である。内務省は上を下への大騒ぎとなった。内務省では、官僚の間で、こんな会話が交わされた。

「大臣は、本気で焼け跡をぜんぶ買い上げるつもりなのか? 30億どころか、40億でも足りないぞ」

「どこにそんな金がある。外債、内債も限度があろう。後藤さん得意の大風呂敷さ」

「まぁ、帝都復興は大いにやっていただきたいが、さて、地方の諸侯は黙っておるまい。大阪や名古屋の知事は、なぜ東京一地域のために過大な国費を投入するのか、と息巻いておる。あまり派手に立ちまわると政局につながるだろうな」

 全部買上げ案は「大風呂敷」と揶揄されて退けられた。

 とはいえ、電光石火のごとき構想立案は永田町の住人たちの度肝を抜いた。なぜ震災直後の大混乱のさなか、瞬く間に大胆な構想を表明できたのか。凡庸な政治家には及びもつかない離れ業のようだ……。

 その理由は、「欧米最新の都市建設」というテーマが後藤の人間としての歩みそのものと直結していたからだった。後藤が挑んだ数々の創業的事業のなかでも都市づくりは思想と実践が最も強く結合したものだった。

いささか卑近な話になるが、今回の東日本大震災の発生から5日後、菅首相は内閣府特別顧問の笹森清元連合会長に「ボクはものすごく原子力に強いんだ」と、東工大応用物理学卒の経歴を誇るように言ったと伝わる。もはや、あ然とするほかない。現実と己の距離感がまったくとれていない。菅首相と原子力の関わりを寡聞にして私は全然知らないけれど、後藤にとっての都市建設は生き方を貫く「背骨」のようなものだった。

 1857年、岩手水沢の藩士の家に生まれた後藤は、医師として世に出た。コレラが流行ると年間10万人以上が死んだ明治時代、その最前線で病気と闘った。のたうちまわる患者の間を、薬瓶を抱えて走り回った。日清戦争後、大陸から帰還する23万人の兵士が伝染病を持ちこまぬよう、下関、広島、大阪の沖合に広大な施設を建造して「大検疫事業」を敢行した。一気に23万人の検疫を達成した事実は、ドイツ皇帝も驚く世界史上の壮挙だった。こうして医療の第一線で奮闘しているうちに後藤は深く思い知る。

「コレラは大流行してから手を打っても遅い。伝染病を防ぐには上下水道を通して衛生環境を整え、雨が降れば泥濘のようになる道路を舗装し、都市を清潔に近代化しなくてはならない。都市づくりこそが、最大の予防策である」

 ここが後藤の都市建設の原点であり、人間の集団が生き延びていくための「公共の経綸」の実践的スタートであった。

 後藤は医師から内務省衛生局(現厚生労働省)の官僚へ転身する。日清戦争後、植民地となった台湾に民政官で赴任すると、道路や鉄道を敷き、港を築いて産業を興した。

 1906年、南満州鉄道の初代総裁に転じ、都市建設熱はいよいよ高まった。

「大連の北、五三万八〇〇〇坪の敷地に最新式の起重機を備えた工場と、事務所、全社員を収容する社宅など四六棟から成る『工業団地』を造ってしまったのである。独立した水道や工場、市街地から排出される汚水の石炭ろ過による処理場まで備えていた。鉄道庁から派遣された職工が六五〇名。風雪のなか突貫工事で車両は組み立てられ、(満鉄が)開業した年の暮れには全面的に広軌運行が始まった」(拙著『後藤新平 日本の羅針盤となった男』)

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ビーアド博士(右)と後藤新平(山岡淳一郎著『後藤新平 日本の羅針盤になった男』より)

 その後、大臣を歴任して東京市長に就くと、専門家を集めて「8億円」規模の都市計画案を立てさせた。さらに米国の都市づくりの理論家で政治学者のチャールズ・A・ビーアド博士とも知己を結んだ。後藤はニューヨークに滞在していた娘婿の鶴見祐輔を介して、腐敗した市政を正す方策をビーアドに訊ねた。それが、終生の縁の始まりだった。科学的調査を再認識した後藤は、実業家の安田善次郎(安田財閥の祖1838~1921)の寄付で「東京市政調査会」を設立し、震災の前年、ビーアド本人を東京に招く。半年間日本に滞在したビーアドは「東京市政論」を著わし、米国へ帰っていた。東京市政論は摂政宮(のちの昭和天皇)も熟読している。

 こうした都市づくりの実践的蓄積が、速攻的な構想提案につながったのである。

 医師から政治家に転じた後藤は人間の集団が生き延びるために何が必要かを知っていた。そこがまた「公共の経綸」という大局観のよりどころでもあった。

 焼土全部買上げ案が潰されても、後藤はまったくひるまなかった。復興構想を実現するには特別な機関が必要だ。後藤の口癖は「一に人、二に人、三に人」である。独立した執行機関に実力本位で「コイツなら」と見込んだ人材を引っぱりたい。後藤は、ぶち上げる。

「各省から独立した『復興省』を創設すべきである!」

 首都の復興を国家的事業と位置づけ、計画立案はもとより、各省が所管する事務も復興省に集中し、一元的に復興事業に取り組もうと後藤は考えた。

 だが仕事を奪われる側の各省は色めき立つ。ハイ、そうですかと呑める話ではない。各省も復興に向けた特殊な機関を設けることには反対しなかった。ただし、その特設機関の役目は復興計画の策定に限定し、事業の執行は従来の各省や自治体に任せるべきだと強く主張した。この特設機関は「復興院」と呼ばれた。

 後藤は、閣議で「事務の統一、能率」の面で復興省のほうが優れていると反論する。各省大臣との激論は続き、議論は平行線をたどった。結論を出すには妥協を図るしかない。

 その結果、名称は「復興院」とされたものの、後藤の意をくんで事業の執行権限を持つ組織が立ち上げられたのである。復興院は「東京及び横浜における都市計画、都市計画事業の執行及び市街地建築物法(現建築基準法の母体)の施行その他復興に関する事務」を所管すると決められた。

 いったん結論が出たら、後藤はくよくよしない。復興院を首都圏再生のエンジンにしようと人材をあちこちから引っぱった。岩手出身の後藤には長州や薩摩といった藩閥の後ろ盾はなく、政党とも遠い。畢竟、人脈は自ら培うしかなかった。台湾の民政長官時代から、一種のプロジェクト主義で人材を結集してきた。

たとえば、製糖業を育成するために米国から気鋭の農学者、新渡戸稲造(1862~1933)を呼んでいる。新渡戸は、そのころ体調を崩し、妻の故郷の米国で療養していた。のちに世界的ベストセラーになる「武士道」を英文で書き上げたばかりだった。

 新渡戸は、初めのうち台湾行を固辞していたが、後藤の度重なる説得に根負けして応じた。二人はたちまち意気投合する。国際派の新渡戸と、外国語を喋れない後藤の組合せに周囲が首を傾げていると、後藤はこう言って笑った。

「(新渡戸は)アメリカに留学して、向こうの女と結婚しているので、いやにハイカラな男と思う者もあるらしいが、いってみれば、ちょんまげに洋服を着せたような男だ」

 新渡戸とは生涯の友となる。後藤は、南満州鉄道の初代総裁に転じると、民法の権威、岡松参太郎教授を京都大学から引き抜いた。岡松の満鉄入りに京大は激しく抵抗したが、「大学教師の代わりはいくらでもいるが、国運を左右する満州の法整備を担えられるのは、清国の法律に詳しい岡松の他にいない」と押し切った。後藤の人集めは「人間道楽」の観さえあった。復興院では、その集大成を、とまなじりを決した。

 復興院総裁は後藤が兼務する。実務を取り仕切る2名の副総裁の一人には、当初、台湾時代からの右腕、中村是公(1867~1927)をすえるつもりだった。中村は大蔵出身の官僚らしからぬ「べらんめぇ」調で「フロックコートを着た猪」とあだ名された。持ち前の馬力と明晰な頭脳で、台湾では土地調査を統括し、専売局長も務めた。いかにも後藤好みの野人タイプだが、根は繊細だったともいわれる。満州では後藤を継いで第二代満鉄総裁に就任している。

 後藤が広げた大風呂敷を中村がきちんとたたんで事業を軌道にのせる。そんなパターンが定着していた。中村は、満鉄の宣伝を兼ねて親友の夏目漱石を満州に招いている。漱石は、「満韓ところどころ」という小文で大連に中村を訪ねた話を、学生時代の「落第」に絡めて、次のように記した。

「大連で是公に逢って、この落第の話が出たとき、是公は、やあ、あのとき貴様も落第したのかな、そいつは頼もしいやと大いにうれしがるから、落第だって、落第の質が違わあ、おれのは名誉の負傷だと答えておいた」

 豪放磊落な中村は部下から慕われた。後藤は、あうんの呼吸が通じる中村が、まさか復興院副総裁を断るとは思ってもいなかった。

 ところが、水を向けると、是公は「ご免こうむります」と拒んだ。なぜだ? よくよく聞けば、もうひとりの副総裁候補、宮尾舜治(1868~1937)とは一緒にできない、と不満をぶちまけられた。宮尾も台湾、満州で実績を積んだ大蔵出身の官僚で、愛知県知事も務めていた。これまた型破りな男だった。第一高等学校の学生時代、宮尾は両国で「紀文堂」というセンベイ屋を開業し、商売が繁盛して忙しくなったために落第している。「センベイ博士」と呼ばれたりした。なかなか娑婆っ気のある人物だった。

 その後、東大法科に進み、大蔵省に入って出世の階段を昇るのであるが、「フロックコートを着た猪」と「センベイ博士」はどうもソリが合わない。後藤新平も悩む。猪か、センベイか、どっちをとるか……。こういう人事の煩悶は、あちこちに転がっている。後藤は、センベイをとった。宮尾を副総裁に残したのである。

 では、中村を切りすてたのかというとそうではない。強引ともいえる推挙で、中村是公は東京市長の椅子に座らせたのだった。

 復興事業は東京市という自治体の協力なくしては立ち行かない。後藤と犬猿の仲の政党勢力は東京市政に根を張って、隙あらば足元を救おうと狙っている。中村を市長にすえて東京市という外堀を埋めたのだ。復興院副総裁と東京市長なら、つり合いも悪くはない。中村の自尊心も満たされる。なかなかの人事の妙である。

 そして復興院のもう一人の副総裁には、松木幹一郎(1872~1939)という技術系の実力者を選んだ。松木は逓信相、鉄道庁で事業に携わっており、経営のわかる技術者であった。復興院の人事は、全体を眺めると一定のバランスがとれていた。

 副総裁に財政に詳しい宮尾と実業に強い技術系の松木というツートップを置き、実務を束ねる局長クラスに逸材を配した。都市計画局長には「都市計画法(現都市計画法の母体)」を起草した池田宏(1882~1939)、建築局長は構造建築家の草分けである佐野利器(1880~1956)を選任している。

 宮内省技師だった佐野は、復興院に招聘されて「私はどんなことをやるのでしょうか」と後藤に訊ねた。「そんなことはおれにわかるものか。そっちで考えろ」と返答される。このひと言が胸に響き、「よしっ、ひとつあらん限りの力を出してお勤めしよう」と決意した。プライドの高い佐野は「後藤さん以外の人の下ではやる気はなかった」と述べている。佐野は自分の代表作だった鉄骨レンガ造の丸善書店(1909年築)が震災で飴のように曲がったことから奮起し、復興事業では耐震・防火の観点から区画整理や学校、病院、官庁の鉄筋コンクリート化へとまい進していく。

ひと癖もふた癖もある局長連中のなかでも経理担当の十河信二(1884~1981)は、人一倍鼻っ柱が強かった。夜中に後藤邸を訪ね、土木局長には過去の経歴にとらわれず、若い有能な技師を登用してほしいと談じ込んだ。十河は意中の人物の手腕力量を熱っぽく語った。が、後藤は経験の浅さを懸念して「すでに内定している」と退ける。十河は食い下がり、切々と説く。後藤は頑としてきかない。十河は、とうとう総裁を相手にタンカを切る。

「後藤新平すでに老いたり、後藤新平ならばこそ、帝都復興の如き困難なる大事業も成し遂げられると思うて、自分はその傘下に馳せ参じたのであるが、最早その希望は水泡に帰した、こんなところに長居は無用」(『正伝・後藤新平』8巻、鶴見祐輔著)

 と、後藤を罵倒して席を立った。あまりに大きな声で口論しているので、秘書は何が起こったのかと隣室で冷や冷やしながら聴き耳を立てていた。十河は、後藤邸から帰宅すると辞表を書き、書留で郵送して、そのまま伊香保温泉へ旅行したというから豪傑だ。

 では、若い下僚に面罵された後藤は、どうしたのか。

 翌早朝、宮尾と松木を呼んで意見を聴いた。両副総裁は十河の案を推す。後藤は「よし、そうしよう」と受け入れたのだった。そのことを知った十河は、温泉であたたまる間もなく、伊香保からすっ飛んで帰り、身を粉にして働いたという。

 戦後、国鉄総裁として高速化に尽力し、「新幹線の父」と呼ばれる十河信二の若かりしころのエピソードである。

 1923年9月27日、「やりたいことは、どんどんやれ!」と後藤は檄を飛ばし、震災発生からひと月足らずで復興院は滑り出した。文字どおりゼロからの出発だった。内務省庁舎は焼け落ち、永田町の内務大臣官舎が臨時庁舎として使われていたのだが、部屋はどこも満杯だった。復興院には「廊下」が事務室としてあてがわれた。机はなく、各省から回ってくる書類の受け付けも見当たらず、書類を整理する属官もいない。ないないづくしで、復興院の面々は書類をポケットにねじ込んで走り回った。

 副総裁の宮尾は、着任間もなく、財界人の食事会に呼び出され、いきなり「具体的な復興計画を出せ」といわれて逃げ帰った。計画を立てようにも建物と一緒に土地台帳も焼けてしまっている。横浜には満足な地図さえなかった。地形の測量、面積と所有権の確定といった泥臭い地籍事務からとりかからねばならない。本来、これらは大蔵の管轄だったが、待っていても先は見えない。被災地でひんぱんに講習会を開き、人海戦術に打って出る。

 かくしてスタッフは、日に夜を継ぎ、不眠不休で復興計画を練り上げていった。

 後藤は、電撃的な構想表明の一方で米国のビーアドにも力を貸してほしいと連絡していた。震災直後、後藤は海軍の無線通信を使って、ビーアドに電報を打った。

「東京の大部分焼失、完全無欠の復興計画を樹立せんと企図する。少しでも時がゆるすならば短期滞在でもよろしいので来日を乞う」

 その電報が届くよりも早く、ニューヨークタイムスの号外で震災を知ったビーアドは、

「すぐに道路計画を立案せよ。道路は広く構築すべし。道路線内の建築を禁じ、中央駅を連結、統合せよ」

 と、後藤に打電していた。ビーアドは、太平洋を隔てて望遠鏡で東京を観察しているかのように鋭いメッセージを送ってきた。打てば響く関係とはこういうものだろう。

 後藤は、外国語がほとんど分からなかったけれど、持ち前の洞察力と開放的な人間性で諸外国の要人とも親密に交際した。白ひげをたくわえ、洒脱な洋装で紳士然とふるまっているが、相手が誰であれ、向き合って興に乗れば目を少年のように輝かせて話し込んだ。ビーアドは、後年、ニューヨークで鶴見に「おい、オールド・ボーイは、今頃、日本でどうしているだろうな」と語りかけては後藤の身を案じたという。

 ビーアドが太平洋を渡ってくるのを、後藤は首を長くして待っている。省庁の垣根を超えて集めた人材が復興へと走り出した。

 だが……、後藤が復興へ精力を傾注している裏で、巷では「虐殺」が横行し、東京は不穏な空気に包まれていた。震災後の「情報」の偏りが虐殺を招き、人心を荒廃させていた。治安を預かる内務大臣として、後藤は、はたしてどう動くのか。

写真提供:財団法人東京市政調査会、出典:山岡淳一郎著『後藤新平 日本の羅針盤になった男』
(次回に続く。)
日経ビジネス http://business.nikkeibp.co.jp/article/money/20110427/219668/?P=1

【著者プロフィール】
山岡 淳一郎(やまおか・じゅんいちろう)
1959年愛媛県生まれ。ノンフィクション作家。「人と時代」「21世紀の公と私」を共通テーマとして、政治、経済、近現代史、医療、建築など幅広く執筆。都市問題の追究から、後藤新平の帝都復興構想の頓挫と東京の混沌に行きあたり、『後藤新平 日本の羅針盤となった男』を著わす。『田中角栄 封じられた資源戦略』『日本を大切にする仕事 身のまわりから社会を変える10人の生きざま、働きざま』ほか著書多数。ブログはこちら。(写真:GO FUJIMAKI)

-このコラムについて-
後藤新平と震災復興の4カ月 その可能性と限界
東日本大震災後、政治家やメディアの間から「後藤新平のように…」とか「帝都復興院のような…」という言葉が何度も出てきた。後藤新平は、岩手水沢藩士の家に生まれた医師。その後、衛生官僚から台湾総督府民政長官、満鉄初代総裁、内相、外相、東京市長などを歴任。総理大臣になることはついになかったものの、政治家として明治から大正の日本の基礎を築いた人物だ。この後藤新平が関東大震災後に創設した帝都復興院の復興計画とはどんなものだったのか。そしてその復興案はどんな結末を迎えたのか――。関東大震災後に発足した山本権兵衛内閣が「虎ノ門事件」で総辞職するまでの4カ月間を追いながら、内務大臣として日本復興のために奔走した後藤新平の気概を描く。



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