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【Syunichi's コラム】 私は博多育ちで/ by たかはし・まりこ

          130130

私は博多育ちで、
それ以前の記憶はないのだが、本当は広島県廿日市市の父の実家で生まれた。
博多に移り住んだのはー歳半だった1950年10月のこと。
そのころ父の森岡月夫は博多のジャズバンドのサックス奏者だった。
生活のめどが立ったので母千鶴子と私を呼び寄せたのだ。

両親は被爆者だった。
父は原爆投下直後の広島で大量のガスを吸ったと言っていた。
母の体には小さなケロイドがいくつも残っていた。
つまり私は被爆2世ということになる。
白血球が少なく体が丈夫でないのはそのせいだろうか。

親子3人の幸せな生活は短かった。父が左足の親指にけがをしたのだが、
いつまでたっても治らない。病院に行ってみると「脱痘(だっそ)」と診断された。
血管がつまって血が通わなくなった手足の先が壊死(えし)する難しい病気だ。
父は「原爆のせいでは」と疑っていた。
結局、父は親指を切断した。右足の指先も悪くなり、
そちらも切断するしかなかった。手術と入院の費用がかさみ、
生活のために母は夜の仕事を始めた。
まだ20代の若さで将来の夢を断たれた父は荒れた。
それでもバンドの仕事は続けていたから、夕方になると両親とも出かけていく。
私は誰もいない暗い家で夜を過ごし、独りで眠った。
幼稚園に入ったころ父は左足のひざから下を切断する手術を受けた。
激しい痛みに耐えるため高価なモルヒネが手放せなかった。
小学校1年生のとき、父は右足も切断して松葉づえの生活になり、
家族に負担をかけまいと廿日市の実家に去った。

すると知らないおじさんが母を訪ねてきて泊まっていくようになる。
父がいなくなり、母も私のものではなかった。
当時の通信簿に「悲しいほどの寂しさを感じさせる性格である」と書かれている。

高校生のとき東京の渡辺プロダクションに入ったが、
本格的な歌手になりたかった私とアイドル路線をひた走る会社と
肌が合うはずがなかった。

孤独の中で両親のことを思った。すると突然、
女としての母の悲しみや苦しみが自分のことのようにわかってきた。
母も寂しかったのだと。

303  私は母を許し、
 母は私を抱きしめた。
 飛行機に乗るとき、
 ステージに上がるとき、
 私の指でいつも
 母の形見の指輪が
 光っている。

_______________________________________________

 たかはし・まりこ 1949年、広島県生まれ。 
「ペドロ &カプリシャス」の2代目ボーカルをへて78年ソロ歌手へ。
以来、ステージ中心の活動を続けている。
最新アルバムは男性ボーカル曲だけをカバーした「No Reason2」。



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